2020年8月29日土曜日

インクルーシブ教育公開研究会に参加して

   オンライン座談会に参加してくださった方から、東京大学大学院教育学研究科付属のバリアフリー教育開発研究センターのインクルーシブ教育公開研究会というのがあるよと教えていただきました。ということで、今日参加して思ったこと、考えたことを書き留めておこうと思います。オンライン開催は、海外在住者にとって、大変ありがたいです。参加したのは以下です。続編が9月26日に行われ、内容は、日本国内のコロナ禍とインクルーシブ教育となるようですので、興味ある方はぜひ。

第11回 インクルーシブ教育公開研究会

コロナ禍のインクルーシブ教育――世界の学校でいま問題となっていること 

講師:崔栄繁

講師は、DPI (Japan National Assembly of Disabled People`s international)日本会議の崔栄繁さんでした。前半は、そもそもインクルーシブ教育とはという概論の話でした。この部分は新しい内容はなく、大学で勉強した内容に一致するものでした。日本語で日本の状況と照らし合わせながら話を聞けるというのは、勉強になりますし、ユネスコの最新のグローバルエディケーションモニタリング(GEM2020)を取り入れて話してくださるのは、大変勉強になります。GEMレポート2020の中では、

私たちがみんな共通して持っているものは「違い」

であると。その違いには、ジェンダー、年齢、移住地、貧困、ハンディキャップ、民族性、先住民性、言語、宗教、移民や避難民という立場、性的思考や性自認、性表現、投獄経験、信念、態度などがあり、この「違い」を認識し、目を向けるというのは、スウェーデンでは重要な点として伝えられており、「違いは、互いを豊かにする」といわれます。私は、「スウェーデン人と同じようにすること」に努力を図ってきましたが、パートナーに、そんな無駄なことに時間を使う必要はないとよく言われました。私が持っている違いを良さとして、まず自分が捉え、そして、自信をもって生きていくことで、その違いは、多様性として、互いの人生を、社会を豊かにするのでしょう。

正常と異常、特別

ここも重要な点であると感じます。よく大学で議論したなあと思いだして話を聞いていました。何を正常とし、異常とするかは、社会や文化にあり、そこを作っているのは、生きている私たちであり、変えていくことが可能であるという発想が昔はなかったのですが、スウェーデンで暮らすようになり、この点をいかに意識して個人が生きていくかは重要であると感じるようになりました。話の中では、特別なニーズという概念から、参加と学びへの障壁という概念に置き換えることで、変化を生み出していけるのではということでした。

インクルーシブ教育は多様な目的を果たす

ここ、重要であると思います。インクルージョンはプロセスという話もあり、ローマの道は1日にしてならずなのですが、往々にして、結果を求めがちで、そうなると、この多様な目的を果たす部分が見えにくくなっていると感じることがあります。ただ、場の統合をして共に学ぶことだけでは、インクルーシブ教育ではなく、インテグレーションの状態であり、インクルーシブ教育にはそこに生み出す、多様な目的、可能性を常に見ていく必要があり、そこに目を向けないと、反インクルーシブの状況が生まれてしまうように感じます。


印象的だったのは、「場の統合」が重要であるという点を強調された点。スウェーデンの最新の考え方でも、インクルーシブ教育を細分化し、そこにこの場の統合をどう見ていくかというのが議論となっており、場の統合を含んだ形を強調した数年まえからは、緩和された感を受けます。その傾向が日本でもあるのだろうと感じました。

「フルインクルーシブ」という言葉が出てきて、この言葉が使われるのは、おそらく教育現場のみであろうということでした。スウェーデンではあまり聞かない言葉です。どんな障害のある子も共に学ぶ教育となると、どうしても同業者である私は教師側の負担を考えてしまいます。その子その子の学びと発達の権利を保障しつつ、様々な障害がある子どもを同じ教室で教育するというのは、やはり教師の考え方や技量が試されます。学校や校長の方針も大きく関わります。まじめな先生ほど苦しむのではないかとか考えてみたり。ただ、実際にそういう場にならないと現場が変わらないというのも事実なのですが。

あとは、年齢のことも印象的で、話の中に同年齢の子と学ぶという話が出てきており、これも、飛び級などがない、ギフテッドクラスなどがないからこそ、言えることであり、ここはスウェーデンも似ているのですが、諸外国によっては、このあたりの発想も違いが出そうに思いました。

後半はコロナ禍におけるインクルーシブ教育の話が出て、アメリカや韓国の事情が報告されました。報告内容は、スウェーデンで聞くオンラインによる教育の難しさに通じるところがあり、課題点は似ていると感じました。といっても、スウェーデンは、義務教育と特別支援学校の高等部は閉鎖されなかったのですが。

思ったことはいろいろあるのですが、私が特別支援教育に関わるようになったきっかけは、中学2年生の時に同じクラスにいた、おそらく脳性麻痺であった同級生との出会いがあります。どんな障害がなど、気にしたことはなく、聞いたこともないのですが、三輪車型の自転車に乗った彼は、足が不自由で、話が多少不明瞭な以外は、同じ同級生で、私と彼と他の同級生3人の5人で仲良くしていたことを思い出します。球技大会で、バレーがあって、彼が参加すると優勝はできなかったけど、みんなで楽しかったことを思い出します。そんな出会いを思い出し、インクルーシブ教育とはと考えた2時間半でした。何度も言われていたのが、考え議論していくことの重要性。同感です。この点が、恐らくスウェーデン、スウェーデン人は長けているように感じます。対話をしていくこと、考えていくこと、続けていきたいと改めて思いました。


2020年8月2日日曜日

モンゴルの自閉症の男の子の絵ー才能と生きる力とは

 春からオンラインで話をする会を企画し、最初は不安でしたが、自分の考えを言葉にする機会となり、多くの方とのつながりを生み出してくれました。今日は、そんなつながりが繋いでくれた、モンゴルの自閉症の男の子の絵を紹介したいと思います。

 オンラインの会に参加してくれたのは、その昔私の学校に見学に来てくれた方。青年海外協力隊としてモンゴルに派遣される前に勉強したいと訪れてくれました。何ができるかわからないけれど、誰かの役に立ちたいと話す彼女の姿を思い出します。日本での経験を活かし、私の生徒たちに授業をしてくれました。あれから数年たち、オンラインでの会に参加してくれ、デンマークのアートプロジェクトの写真をみて、このモンゴルの自閉症の男の子の絵を送ってくれました。

 この男の子は、モンゴルでアートのイベントを開き、テレビやニュースでも話題になったとのことです。彼女を通じて、写真の紹介の承諾をいただきました。モンゴルの障害がある子たちも療育を受けているとのことで、その中で、彼の絵の才能を見つけるに至ったとのことです。まだまだ、これからということが多い、モンゴルの障害児の療育・教育事情、いつか詳しく聞きたいです。






大変魅力的な絵です。色使いや構図など、とても素晴らしいと感じます。そして、何より、「生きる力」を感じます。人にはそれぞれ、苦手なこと、得意なことがあり、どんな人にも才能があります。そこに、障害の有無は関係ないのです。彼の絵を描くという才能は、「生きる力」となり、絵から放たれていると感じます。

教育、特別支援教育に関わるものとして、こうしたその子が持つ才能や得意なこと、好きなことを、たくさん見つけてあげて、その子が生きる力をもって生きていける、その生きる力を分け合いながら生きていけるように手助けをできればいいなあと思います。


障がい者の絵の力を信じ、ビジネスとして展開している会社を思い出しました。クリエイターである障がい者と支援員であるアトリエリスタが共同で作品を制作し、市場価格で商品として売っていこうというもの。「RATTA RATTARR」というチャレンジドジャパンという会社が運営していて、話をお聞きしてから、もう何年もたっています。一度、連絡を取ってみたいなあと思った日曜の夜です。