2021年7月17日土曜日

集団は何人から?

  今日は、日本のオンラインの会に2つ参加しました。会に参加して考えたことや思ったことを、言語化したいと思います。日本を離れて20年、文章化、言語化することがいかに重要かを日々感じるようになりました。SNSとかいろいろやってますが、ブログである一定量の分量を書くことはとても重要であると感じつつ、なかなかできていない現状です。と、言い訳っぽい開始になりました。

 一つ目の会は、参加者は8名くらいだったかな。宮城県で特別支援教育に関わる方たちが集まって、全障研のみんなの願いの中の連載を読み合わせ、話し合いました。大変よく計画されている会だと感じました。連載は、北海道教育大学の小渕隆司先生で「子どもの発達と集団」についてでした。書かれている内容は、現場にいるとよく目にする光景なのですが、ああして文章化して、その様子を客観的に意味づけるのは容易ではないと思います。話し合いの中で出てきた新しい日本語は、「横の発達」と「縦の発達」という言葉でした。私がいつも使うスウェーデン語では、あれだなあと思いながら、日本語での表現方法やその方の話をとても興味深く聞きました。私の多くの生徒もそうなのですが、ここで今日できたことが、明日家でできるとは限らないので、いかに同じ能力をいろんな場面でできるように般化していくかが、一つの目標になったりします。年齢などで見る「縦の発達」だけで見ることが多い中、こうした「横の発達」は、実は実生活では、とても重要です。この部分は、全体の中ではとても一部なのですが、スウェーデンの重度障害児の社会的つながりのなかで使われる言葉に、やはり、「横の関係」と「縦の関係」という言葉があり、「横の関係」は子ども同士のつながり、「縦の関係」は職員など周りの大人との関わり、といった感じで使うのですが、こうした状況をより分かりやすく説明する言い方というのは、重要であるなあと考えながら話を聞いていました。

長くなるし、アウトプットのための文章なので、続けて書いていくと、タイトルの部分の「集団は何人から」を考えていました。この点について、話し合いでは発言しなかったのですが、私も重度の重複障害児に長年関わってきて、この集団から学ぶことの重要性と「集団」の定義について考えることが多々あり、ここって実はすごく重要なのだと思うのです。「集団」という言葉から受けるイメージや、その人が持っている「内的定義」は、育った環境や体験や経験などに大きく左右されていて、それをして集団を生徒に押し付けることは、教育でもなんでもないのではないかと思うことがあるのです。例えば、重複障害で、知的障害、自閉症もといったような生徒の場合、その子にとっての集団は、その子と教師とアシスタントともう一人の生徒であったりする場合もあり、その集団は、何を目的としてどのくらい(何分くらい)活動を共にするかにもよるところが大きくて、集団ってと考えあえる会は、豊かな会だなあと感じました。


もう一つの会は、毎月参加している全障研岐阜支部のゆるカフェで、お会いしたことはないのですが、毎月話をするうちに、オンライン上でお顔を拝見するたびに、親近感がわく皆様です。今日のテーマは、夏休み。夏休みの思い出や夏休みにしたいことなど、プールの話やラジオ体操、宿題と話は広がりました。こちらの話はまたツイッターに上げようかなと思います。

どちらの会でも、スウェーデンからの参加ですが、大変好意的に受け入れて下さることに感謝です。スウェーデンはこうだよという話をする中で、私自身気が付くことも多くあり、学びの多い時間です。また、機会があれば、参加したいと思います。

2021年7月14日水曜日

書くことは、民主主義

  あっという間に10日間。夏の休暇は、こうして、穏やかに、でも確実に過ぎていくのだなあと感じている今日この頃です。

 夏の間にやろうと思っていることの一つに、昨年の夏に取っていた読み書きのコースの片方のコースの課題をやっていなかったので、それを提出して単位を取ることというのがあります。2コース取っていて、片方は最後のレポート出せたのですが、もう片方は断念し、持ち越したのです。その分をやろうかなと。こうして、後々課題をこなせるから、スウェーデンでフルタイムで働きながら、今までぼちぼち勉強を続けてこれました。(学部や学科によって、多少差があります。)

 読み書きのコースですが、読み書きの発達についてを中心に勉強するコースで、昨年はいっていなかった課題図書が入っており、その中に興味深い内容がありました。それが、タイトルの「書くことは、民主主義」というもの。

 読み書き計算は、学校で教える最も重要なことの一つであるのですが、この書くことというのは、民主主義に参加する土台をつくることにもなっているというもの。スウェーデンの学校で教員をしていると、この民主主義をいかに子どもたちに教え、実感してもらい、年齢と能力に合わせた形で実行してもらうかが、常について回ります。今回のコースでも、書くことと民主主義への参加の重要性が歌われていて、とてもスウェーデンらしいと感じ、また、書くことをこうした視点からとらえることの重要さを思いました。書くことの意味を勉強がてらまとめてみました。

書くことは、コミュニケーションであり、民主主義に参加する基盤であると弁論術と比較しながら、わかりやすく説明がされ、学校で教える基礎的な読み書きでも、この考えをもってして行うことは重要であると改めて思いました。

導入部分で、2017年12月8日にアメリカのオバマ氏の言葉が用いられていました。民主主義の庭と例え、民主主義の価値と社会システムは、決して、ただ手に入るものではないということが強調されています。人々がルールを守り、互いに互いの価値に敬意を払い、社会的平等と自由に価値を見出し、重きを置き、互いの違いに寛容であることが重要であり、このことを常に社会として、会社や学校などのグループとして、個人として、それぞれが、考えていくことが重要であると、私も思います。どこかの部分が欠けても、民主主義は、本当にもろく、形を変えていくのではと思い、スウェーデンの社会で見る、民主主義にかける強い思いというものは、やはりこの国の強さであると感じます。


2021年7月4日日曜日

ドキュメンタリー映画「Crip Camp」

友人より、アメリカの障害者運動のドキュメンタリー映画を教えてもらい、早速見ました。教えて下さって、ありがとうございます。とても興味深かったです。映画の名前は、 



「Crip Camp: A Disability Revolution」

と言います。クリックすると、YouTubeのトレイラーが見れます。日本語名を調べてみると「ハンディキャップ・キャンプ:障害者運動の夜明け」とありました。Netflixで配信されており、制昨年は、2020年と新しいドキュメンタリー映画であることが分かりました。この映画は、元大統領夫妻のバラク・オバマ氏とミシェル・オバマ氏がが製作総指揮を務めているとありますね。 

1970年代初めにアメリカで起こった障害者運動、障害者も同じ市民と認め、その権利をと、障害者が立ちあがりました。ドキュメンタリーは、障害者たちのサマーキャンプの様子から始まり、そこで、様々な障害がある人々が集まって自由に夏を謳歌する姿とは裏腹に、いかに普段虐げられてきたか、学校や社会で「他との違い」を意識して生きてきたかが語られます。映画では、個人に焦点を当て、個人が語る部分が多くあるのですが、初めの部分で印象的だったのが、「普通学級」に通うことになった息子にお父さんが「自分から前に出ていかなければいけないよ。向こうからはこっちにはこないから。」と話したというところ。こうした「障害者は人一倍頑張らないといけない」という暗黙の了解を、アメリカのこの時代には、親が子に話したというのは、歴史を感じ、印象的でした。


スウェーデンの障害児者の歴史をたどると、障害者が分けられてきたことが分かります。障害者でも「学ぶことができる」人々と、「学ぶことができない」とされた人々です。多くの場合、前者の学ぶことができる人々は、知的障害がない、もしくは比較的軽い人々で、後者が重度の知的障害を含む重複障害の方たちというような分け方です。今回のドキュメンタリーの中に、少しだけ、この後者の人々の様子が描き出され、それは、胸をえぐる映像でした。大型施設に収容され、服も十分に着せてもらえず、食事は一人当たり3分で食べさせるといった、ひどいものでした。こうした大型施設の脱却を訴えたのもこの時期で、スウェーデンも最後の大型施設がなくなったのは、80年代の終わりだったので、同じような流れであると感じます。

ドキュメンタリーでは、1970年代の障害者差別禁止に関する法改正と導入にあたり、1973年にリハビリテーション法で差別禁止条項が含まれたにも関わらず、現実的には、施行が遅れ、また様々な問題点を抱えていたために、障害者団体が一丸となって、デモンストレーションやオキュペーションを行った、その様子が描かれています。中心となった障害者の多くは、前出の中の「学べることができる障害者」であり、当事者の中でも発言ができる人たちでした。当事者が声を上げることは、やはり大きな原動力になり、人を動かす力が大きいように思います。立ち上がることが難しい当事者も多くいるので、その代弁者が必要となる場面も多いのですが、こうした当事者が当事者の代弁者となり、大きな変革ができたと感じました。また、つながることの大切さを強く感じました。自分の思いや考えを伝え、同じような思いを持っている人とつながり、仲間を見つけていくなかで変えていけれるものは大きいように思います。現代では、SNSやインターネットを使って多くの方とつながることを可能としており、私たちには、多くの可能性があるのだと感じた点でもあります。


私はその昔書いた大学の卒論が、このアメリカの1975年の全障害児教育法だったので、振り返りながら、この運動とあの法律を考えていました。私が今スウェーデンで特別支援教育の教員をするにあたっても、あの時に考えた統合教育の意味と願いが根底にあり、改めて原点を振り返ることができたドキュメンタリー映画でした。


最後に疑問点を述べるならば、やはり、前から気になっている、アメリカで、子ども権利条約や障害者条約の批准がなかなか進まないことでしょうか。こうした権利や自由に関わる運動の先端となってきたのが、アメリカなのですが、この国だからこそ、署名はするけれど批准がなかなか進まない国としての考え方や思いがあるように感じます。その国の歴史や文化というのが思わぬところで引っかかってくることがあり、そこには、何かしらの意味があるように思えるのです。その意味は、もしかしたら、他の国が見落としてしまっていることなのかもしれないとも考え、法律や権利などに思いを馳せる夏の日でした。