2015年9月20日日曜日

難民問題とスウェーデンのカリキュラム

 白樺の木が黄色くなり始め、木の葉が舞い落ちるようになりました。私は、夏も好きですが、「楽しまなくてはいけない」というプレッシャーにかられる夏よりも、夏が無事に終わり、冬がやってくる感じがとても好きです。


 ここ数週間、ヨーロッパの難民受け入れ問題が大きく報道されています。スウェーデンでも連日報道されており、見聞きしない日はありません。かなりの数の難民がここ数週間でスウェーデンにも登録されました。そんな中、ストックホルムに到着しても難民登録申請をしない難民が多くいるということに驚きました。スウェーデンを通過してそのままフィンランドやノルウェーに行く人も多いときき、それならいいのだけどとちょっと思いました。難民として登録してどこかの国から援助を受けてくれるといいのですが、そうでないと少し心配です。


 複雑な難民問題はいまだに解決の方向が見えていませんが、スウェーデンでは、積極的に難民を受け入れるという姿勢が政府、国民から見られます。私が関わる人々は数が限られていますが、批判的な言葉は聞きません。うちのコミューンでは、このくらい受け入れるとか、準備が進んでいるということもききます。こういうスウェーデンの人々の姿勢には感心させられます。デンマークが難民受け入れに消極的なイメージがあり、それに対してデンマーク国民が行った「積極的に難民を受け入れよう」というデモに、デンマーク人に対するイメージが少し変わりました。お隣フィンランドでは、このタイミングで財政危機を乗り越えるために大きな改革が行われることになり、国民がストライキを行っているとかいう報道があり、そういう国ではどうやって難民受け入れるのかなとか思ってみたり。。。

 
 先日、職員の休憩室で小学校の先生が嘆いていました。生徒が「難民なんかおいかえせばいい」といったらしい。7歳に子供がいうことなので、当然家で大人が言っているのを聞いたのだろうという話になりました。うちの学校では、子供権利週間がもうすぐあるので、今年のテーマは難民です。


 そんなときにふと思い出したのが、スウェーデンのカリキュラムの一部分。小学校のカリキュラムの第1章「学校の理念と使命」の中に「理解と思いやり」という部分があります。その中に、
Det svenska samhällets internationalisering och den växande rörligheten över nationsgränserna ställer höga krav på människors förmåga att leva med och inse de värden som ligger i en kulturell mångfald. Medvetenhet om det egna och delaktighet i det gemensamma kulturarvet ger en trygg identitet som är viktig att utveckla tillsammans med förmågan att förstå och leva sig in i andras villkor och värderingar. Skolan är en social och kulturell mötesplats som både har en möjlighet och ett ansvar för att stärka denna förmåga hos alla som arbetar där.
という部分があります。私がつたない訳をすると、
「スウェーデン社会の国際化と増加し続ける国境を越えた動向は、人々にそういった社会で生きていく能力を要求しており、自分が生きている世界は多文化なのだという理解をせずには入られません。自分自身の文化に対する意識とともに共通の文化遺産への参加の理解は、他の人の生き方や考え方に対する共感と理解を生み、確かな個人のアイデンティティーの確立をもたらします。学校は、文化的かつ社会的な出会いの場であり、そこには、それらの能力を全ての人々が高めるという可能性とともに責任がそこで働く全ての人にあるのです。」


 学校法の中で、国際化や多文化していくことに対して、理解と思いやりで学校の使命として取り上げていることを大変興味深く読んだことを思い出します。今回のこのような難民の受け入れは、こうした人々が当然のこととして受け入れられる基盤があり、加えて、今までも多くの難民を受け入れてきた経験からなのだろうと思います。難民の方達が少しでも落ち着いて暮らせることを願い、難民問題の解決と問題がおこっている地域での平穏が戻ることを願うばかりです。

 





2015年9月6日日曜日

スウェーデンの学校の宿題事情

 新学期が始まって2週間ほどたち、金曜日は学校総出で近くの島に遠足に行ってきました。雨が少し降りましたが、たいしたことはなく、楽しい1日になりました。夜は、姉妹校の先生が遊びにくるということで同僚たちと食事にと盛りだくさんです。

 今日はスウェーデンの宿題論議について。夏前に新聞で宿題についての特集が組まれました。私は特別支援学校で働いているため、宿題に関しての議論に実際に参加することは少なく、併設する小学校の先生方の話を聞きながら頷く程度です。うちの小学校では、昨年だったかに宿題を学校で行う時間を設けたので、その時はかなり白熱していました。

 宿題についてスウェーデンの法律などではどうなっているかを見ると、

  • 宿題に関して記述した法律やルールなどはないが、学校法には、義務教育は土日や祝日に学校活動を行うことを禁止しています。また、授業日であっても1日8時間以内と定めています。(低学年は6時間まで)
  • 「宿題」といってもいろんな形があり、定義はなく、いわゆる復習型と予習型に加えて、遅れを取り戻すためのものの3種類くらいが一般的。
  • 昨年教育庁の方から宿題に関する指針が出された。


 スウェーデンの宿題に関する議論で私がスウェーデンらしいなあと思うのは、宿題は「平等でない」という点。生徒の家庭環境は様々なので、宿題を手伝ってもらえる子供もいれば、全く手伝ってもらえない子供もおり、それが学校の成績に影響するのは不平等であるという点。これはその通りで、


  • 宿題を自分でできる子供は、親も気にしないし、子供も気にしない。おそらく学校の勉強もついていけている
  • 家庭で宿題を見てもらえる子供は二通りあり、やりたがらない子供に苦戦しているかしていないかで変わってくるが、それでも、見てくれる親がいるだけよくて、学校の勉強にもなんとかついていけているだろう。。。
  • そして、宿題を自分ですることができず、家庭でも見てもらえない子どもたち。この子たちが宿題によって受ける不平等は計り知れないだろうと思う。そんな宿題によって成績が左右されてしまう。。。

新聞のシリーズは何回かに渡ったのですが、その中でも研究者たちの言葉にあった、
「宿題の質と内容をしっかりと議論することが重要だ。」

という点。ありがちなのが、宿題を出さなければいけないような感じだから出すというもの。授業を聞いていればできると思われる復習型の宿題でも、授業自体についていけていない子どもにとってはものすごく苦痛で、家で見てくれる大人もいない場合、翌日学校にくるのだって気が重いと思います。教員として、宿題を出す以上はそこに意味がありそれなりの質を考えなければと思った次第です。


 シリーズの中では宿題を無くした学校の例と、宿題をうまく取り入れた学校の取り組み例が紹介されており、どちらも大変興味深い内容でした。特に宿題を全く出さないと決めた学校の方は、教員の授業だけで教えなければならないという気持ちと、生徒のこの時間で学ばなければという思いが重なりあい、授業時間が密なものになっている印象を受けました。一方で宿題をうまく取り入れている学校では、教員間で連携をして宿題が分散して出すようにしたり、学校に自習時間を設置し、宿題でわからない点や家庭で行いにくい生徒を助けるシステムが取り入れられていました。家庭教師のような家庭での補助教育が多少増えてきたスウェーデンですが、塾はなく、子供達の教育は義務教育が担っている部分が大きいです。そこをいかに平等にするかという点で議論が行われるスウェーデンは、私にとって興味深いもので、「そういう考え方もあるなあ」と思わされます。


 特別支援教育と宿題という観点から考えると、子どもがADHDというお母さんが宿題はとにかく大変と話していました。学校に行って帰ってくるのだってやっとな子どもたちにとって、家で宿題と格闘するのは大変であろうと想像します。障害が有る無しにかかわらず、宿題が生徒たちの健康に与える影響に関しても書かれており、あって当然のように思っていた宿題ですが、今後さらに研究が進んでいく必要があると痛感しました。