2024年12月14日土曜日

インクルーシブ教育の「こちら派」と「あちら派」ーインクルーシブ教育に思うこと1

 秋学期を振り返ると、私の中のテーマは、「インクルーシブ教育」であり、ともに学ぶことの難しさにあったように思う。勝手な私の印象であるが、日本でインクルーシブ教育を語る人々は、「こちら派」と「あちら派」があるように思う。どちらが「こちら派」になるかは、その人が「インクルーシブ教育推進派」か、そうではないかによる。インクルーシブ教育の推進派の中にもいろんな温度差があるように見受けるし、「そうではない派」は、決して、反対を大きく打ち出しているようなものではない。いろんな人と出会い話す中で、私のことをこのどちらかに位置付けて話をしてくる人もいて、興味深い。

 私の立ち位置を話す前にスウェーデンの印象を話すと、建前の面でこのようなどちらかの姿勢を出す人はあまりおらず、どちらかというと、多くの方が理想的な話を含めて、インクルーシブ教育の話をする方が多いように思う。これに対して、自分がかかわってくるような現実的な話になると、多くの方が、その難しさを上げ、「なぜ、支援学校があるのか」といったような話にまで発展する。どちらにしても、このインクルーシブ教育というのがそんなに簡単にあっちとこっちに分けられる話ではないことは明確である。

 では、私はどうなのかというと、私は、ともに学ぶインクルーシブ教育というのが原点であり、障害のある無しに関わらず、ともに学ぶことに大きな意義があると思っている。今の私があるのは、中学2年生の時一緒に学んだ障害があるクラスメートのおかげであるし、彼との出会いがなければ、この道には入らなかったと思う。日本の大学の卒論は、アメリカの統合教育についてだった。だからこそ、スウェーデンの学校で教員をするようになり、この国の学校教育の在り方の意味を深く考えると思に、インクルーシブ教育の難しさを感じる。スウェーデンは特別支援学校が一つの学校の形として残っており、加えて、支援学校には、教科学習のコースと領域学習のコースがある。この二つのコースの生徒たちをともに教えることは、基礎学校で支援学校の生徒と基礎学校の生徒を両方教えるようなもので、いかににインクルーシブにクラスそして授業をするかというのが大きなポイントになる。が、それがこなせる先生は多くない。支援学校の場合は、クラス編成時代も基礎学校ほどは容易ではないので、(学年での区切りが明確でないため)より一層難しいというのもある。先生方がクラス運営に悩む姿もよく見てきているし、私自身も悩むことが多い。インクルーシブ教育が、スウェーデンの意味合いで成り立つには、あまりにも多くの要素において、「うまくいく」ことが必要であり、それらを満たす現場はなかなかないというのが、私の印象のように思う。たとえ、一つのクラスでそれなりに形になり、うまくいっても、それが学校として成り立っている場合は、数が少ないのではないだろうか。その証拠に、学校庁の担当者とある会議で話をした際に、できれば、見学したいので、見学するとよい学校を教えてほしいというと、名前は出てこなかった。ここならという事例が見たいと思うのだけど、なかなか難しい。

 


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