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歩けるという可能性ー続編

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今日は、ある方からコメントをいただいたので、それに関して答えていこうと思います。まずは、コメントをくださった方、ブログを読んでくださり、コメントまでくださり本当にありがとうございます。また、9月中にコメントをくださった方、返事を書いていたのに公開するのを忘れていました。コメントの返事が遅れたこと、お詫び申し上げます。今後気をつけますので、これに懲りずに、コメントくださるとうれしいです。  前に書いたのは、こちら。「 歩けるという可能性 」  コメントでは、この「歩けるという可能性」に関して、具体的な子どもの姿やそこから引出されてくる人間的な行為のちがいを知りたいということでした。そこで、少しですが、書いてみようと思います。  少しその前に私の持っていたクラスの話をもう一度しておくと、5年間車いすを使用している生徒たちの担任をしていたのですが、現在は、歩行可能な生徒の担任をしています。 歩けるということは、自分の欲しいもののところへ行けるということ まずは、何と言ってもこれが大きいと思います。私が受け持っていた車いすを利用した生徒たちは、1名を除いて自分で車いすを動かすことができません。他の人が車いすを動かさない限り、その子たちはその場所にいることになります。その上、この子たちは、言葉を話すことができません。発語はあったので、数名の子はときどき大きな声で教えてくれることはありますが、それでも、誰かの手を借りないとその場にいることになります。 この点、今のクラスの子どもたちは、好きなところに行きます。音楽が聞きたいときは、CDプレーヤーのある場所にいきますし、ブランコに乗りたいときもブランコのそばに行きます。絵や写真を使ってコミュニケーションをとる段階に至っていない子どもでも、歩けることによって自分のしたいこと、欲求を伝えることができます。 前のクラスの生徒に4年かかって、車いすを動かす方法を教えました。彼女は、右手なら動かせたので、その手で少しずつ動かす方法を教えます。今では、多少なりとも自分の意志で車いすを動かせるようになりました。 現在のクラスの子どもたちは、勝手にどこかに行ってしまう可能性もあるので、目が離せないのは前の生徒たちと変わらないのですが、勝手に動いてくれるからこそ、言葉を話さない生徒たちが何を考えているのかよくわかり...