2020年1月26日日曜日

呼び方に見る力関係

 あっという間に1月も終わりに。大学院に通い始めて多分もう5年。学部変えたり、大学変えたり、家庭の事情で休学したりといろいろありましたが、秋学期に復学しました。が、ここにきて、また院を休学し、春学期から、Specialpedagogというスウェーデンの特別支援教育の専門家の資格を取りにヨーテボリ大学にいっております。学校から話をもらい、援助を受け、フルタイムのうち、20%勉強に充てることができ、その上、文献も学校から出してもらえるので、いい話かなと。勉強は、今までマスターでやった内容と重なる部分も多いけど、いい仲間に恵まれて、楽しみです。勉強は半部趣味みたいなものなのだし、学べば学ぶほど、分からないことが増えていく感じで、ぼちぼちやっていければと思っております。このコースを終えて3年以内にマスター論文を書けば、マスターもとれるとのことで、数年のうちにはマスター取れればいいかなあと。

 さて、今日は、呼び方に見る力関係について。前に大学院で、教育関係における力の関係がいかに現場に影響をもたらすかみたいな勉強をしました。ちょっと自慢すれば、その時に書いた特別支援学校における生徒アシスタントの力関係に関する小論文が高評価で驚いたのを覚えています。

 スウェーデンの学校で働き、大学で学んでいると、こういった名称、どうやって呼ぶか、定義の在り方などを延々と議論したりする場面に出くわします。ツイッターで前に、日本の夫婦関係で「主人」と夫のことを呼ぶことについて書かれているのを読んで、あるよなーと思ったのですが、夫婦が同等の関係であるとすれば、確かに、主人と呼ぶのはなんだか時代に合わない気がします。こういった言葉の変化は社会の変化に伴い、時代を映すように思います。言葉一つにも、人々の意識が隠れており、その言葉を使うか使わないかによって、その人の意識が見える気がします。

 90年代に「先生」という呼び名をなくし、ファーストネームで呼び合うスウェーデンの学校。私の生徒も名前を言える子は、私のことを「Reiko」と呼びます。学校では生徒のことを名前で呼び、文書などでまとめて総称としては、「生徒」を使います。施設などはまた異なり、違う言葉があります。スウェーデン人友人や同僚と話すときにも、私のほうが言葉にうるさかったりするのですが、「支援者」という言葉、なんだかひっかかるんですよね。支援者という呼び方には、支援する側とされる側の明確な力関係があるように感じられ、支援する側、支援者にはある種の優越感があるような。じゃあ、どうやって呼ぶのかと思うとそこには、やはり専門性をもった名称がその仕事をするという名称があったほうがいいのではないかと。保育の場であれば、保育者、学校であれば、教師といったような、支援をする人の専門性がそこにあったほうが、いいように思うのですが。

 まあ、こんなことうだうだ考えているのはきっと私だけでしょうが、日本のように尊敬語や、敬語文化がある国には、目に見えない、力関係がすでに言葉の中にあり、言葉は常に使うので、それがもちろん社会に深く反映され、平等意識などの在り方に影響を与えているのではないかと考えてみたりします。

 日曜日の午後の一人ごとを少し書いてみました。みなさん、引き続き、よい休日を。

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